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長崎県諌早の小さな石屋の寝言です。 イビキは聞こえません。

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●君子入るとして自得せざるなし」
 ──自得ということは自ら得る、
 自分で自分をつかむということだ。
 人間は自得から出発しなければならない。
 金が欲しいとか、 地位が欲しいとか、
 そういうのはおよそ枝葉末節(しようまっせつ)だ。
 根本的・本質的にいえば、
 人間はまず自己を得なければいけない。
 本当の自分というものをつかまなければならない。

                     『安岡正篤一日一言』より 


● 人間は生ける限り、常にぼけないで、
 なるべく有意義なことに興味を持ち、
 道理を尋ね、情熱を抱き続けることが肝心である。
 不老長寿とは徒(いたずら)に年を取ることではない。
 いつまでも生きる限り、ぼけないで、
 人生に興味を持ち、
 情熱を抱き続けて勉強することである。
 老人に対して貴老と呼ぶ。
 好い語である。
 老人はいつまでも愚老になってはいけない。
 文字通り貴老でなければならぬのである。


                  『安岡正篤一日一言』より


● 宇宙が永遠であるように、
 人生も永遠でなければならん。
 永遠であるということは、
 その途中を受け継いでゆく人が
 よく終りを全(まっと)うしてゆくということであります。
 終りを全うしなければ、
 次の者は始めることができません。
 従って終わりを全うするということは、
 どこまでも続けてゆくということであり、
 よく永遠であるということに外ならない。


                    『安岡正篤一日一言』より


●多岐亡羊(たきぼうよう)ということがある。
 これは羊を飼っておった人が羊を逃がした。
 そこで慌てて追いかけた。
 隣り近所の人も一緒になって追っかけてくれたが、
 あんまり岐路が多い。
 いわゆる多岐である。
 岐路が多くって、
 あっちへ行ったこっちへ行ったと言っているうちに、
 どっかに行っちまってわからなくなった。


 人間もそういうもので、
 あんまり仕事が多くなると、
 肝腎なものがどこに行ってしまったかわからないようになる。
 人間というものの本質、
 人間の使命、人間の幸福、
 そういったものがわからなくなってしまうのである。

                  『安岡正篤一日一言』より



● 器量は多くの人間を包容できることだが、
 これもただできるだけではダメで、
 それをちゃんと是非善悪を見分けて使いこなして
 はじめて本当の器量と言えるので、
 それのできる人を大器量人というわけである。

                     『安岡正篤一日一言』より  
                


  



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プロフィール
HN:
石の地蔵さん
年齢:
62
性別:
男性
誕生日:
1962/04/08
職業:
世間を見ること
趣味:
ソフトボール・ゴルフ・飲食
自己紹介:
飯盛生まれ。
飯盛西小・飯中・卒業
諌早農高 農業土木科卒
国土建設学院(東京)卒
扇 精光勤務(長崎大水害の頃) 
石屋となる。

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